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”心に響いた小さなナニカ”を記録に残すための、ひと手間加えて”心に響く小さなナニカ”を生み出す場

紹介と感想とレビューと、思考の言語化

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「レビュー」という言葉。僕はこの言葉を見る度に違和感を感じる。なんだかふわふわしとるなと。ブログにもよくこの言葉は使われている。

ブログを書くようになって、自分でも「レビュー」という言葉を使おうと思った時、この違和感が僕を襲った。僕がブログを始める時にあげた以下の3つの目的。

1:新しいものを生み出すことに慣れるため

2:表現の仕方の奥深さに気づき、勉強したいと感じたため

3:世の中に溢れているlogをもっと吟味するため

特に2と3、これらをやるには、この違和感を理解して払拭しなければいけないかなと思い、少し整理してみる。

 

紹介

「レビュー(評論)」について考える前に、まずは「紹介」について考えてみたい。僕だけかもしれないが、「紹介」と「レビュー」と「感想」、ごっちゃになってる。というか、意識していなかった。○○の紹介、○○のレビュー、○○の感想、ふむふむとなんとなく言わんとしていることはわかるしわかった気になっていたし、正直右から左に聞き流していた(斜め読みしていた)。けれども、自分で言葉を使うとなった時に、おう?と正確な違いってなんぞやと疑問に思ってしまった。

僕たちはブログという媒体を通して、情報発信を行う。何故情報発信を行うのか、それは目的を達成するため。お金儲けであったり、自己満足、他人を幸せにするといった、自身の目的を達成するためだ。(僕の場合は自己満足やモチベーションの維持、かな)

ただ、この情報発信、それだけでは目的を達成するための手段にはなりえず、そのままではただの行為にしかならない。

目的を達成するためには、手段を明確にして実行する必要がある。僕は、手段とは行為と価値と結果をがっちゃんこしたものだと思っている。

そう、「紹介」とは、「価値ある情報(価値)」を「情報配信(行為)する」ことで、「認知してもらう、共感してもらう、行動を起こしてもらう(結果)」という自身の目的に対する、手段のことを指していると考える。

ここまで書いたらなんとなくわかると思う。「レビュー(評論)」や「感想」は、自身の目的に対しての手段にはなりえない。あくまで、「価値ある情報」を作成するための手段として存在するものだということ。

んなの当たり前じゃーーーん、と思うかもしれない。というか、実は僕も。今は、当たり前のこと何書いてんだろ。偉そうに、はずかし。と思っている。なんだけれど、書くまでは当たり前と思えていなかったので(これも恥ずかしい)、このまま書いていく。最後に書くが、思考の言語化、大事なことだなと実感しているところ。

というわけで、「紹介」とは自身の目的を達成するための手段のひとつだということ。「レビュー(評論)」や「感想」は「紹介」の価値を決める手段のひとつだということがわかった。うむ、すっきり。

これがわかることで何得するのよと疑問に思う人もいると思うが、金儲けのために製品の紹介をしているのに結果が出ない〜〜という時、紹介という手段の価値がないのか。行為がいけないのか。結果は出てるか。商品の価値を紹介するには、レビューという方法をとったほうがいい?感想を伝えたほうがいい?そもそも、紹介という手段自体あってる?と分析しやすくなる。と、僕は思う。。。きっと。

レビュー(評論)

そもそもこの記事を書くきっかけになったのは、自分でレビューの記事を書いていた時に、「ん?これレビューになってなくね?てかレビューって何?論することだよね。これって感想書いてるだけじゃね?ん?感想ってレビューに何ないか?そういうの見たことあるような、無いような。」というしょうもない思考に陥ったこと。で調べた。

レビューとは、評論。批評。という意味。評論とは、物事の良し悪し・優劣・価値などについて論ずること。by wiki

個人的な意見になるけれど、論することにおいて大切なのは”特定の条件下”と””客観的であること”だと思っている。条件を絞らないとそもそも論することができないし、客観的でなければ人を納得させることはできない。

今いろいろ見てみたけれど、条件を絞りきれていないのに比較しているものや、主観が多く入っているもの、情報を整理しただけのものでも、「レビュー(評論)」の括りに入れられているものが意外と多い。逆にすんなり入ってくる情報はこれらが整理された状態で書かれている。

例えば、映画作品の「レビュー(評論)」。映画の構成要素として「ストーリー」「キャスト」「映像」「音楽」「編集」などなど、いろんな要素があるわけだけれど、要素を絞り他の作品と客観的比較を行わなければ「レビュー(評論)」にならないと思っている。「この監督の作品やっぱいいわ、ストーリーもいいし、演出が派手で、キャストも豪華。○○のところなんかほんと鳥肌もの。ただ、○○はいただけないな、もう少し違った表現できなかったか。○○とすればなお良かった。彼の最近の作品は○○な傾向にある。でも、お気に入りベスト10には入る。絶対後悔しないよ、見てみて!」は「レビュー(評論)」ではない。

「レビュー(評論)」において、絞り込む条件が一番大切だと思っている。あとはそれを自身の専門性であったり、知識を用いて分析するまで。それが訪れた人の共感の得られるもの(理解のできるもの)かつ、知らないものを含んでいるなら、おお、そんな視点もあるのか。おお、そんなすごいものなら試してみたい。などの感想を得られる。

僕も映画や小説、その他もろもろでやってみようかと思ったけれど、正直難しい。論じるための知識や視点がないから。わかりやすく書く文章力もない。上手な「レビュー(評論)」を行い、何かの紹介をスパッとやり遂げる人、すごいと思う。

感想

「感想」は必ずしも比較しなくても良い。純粋に自分の思いを綴るもの(=主観)。書く内容も、こうだと思うよーとかでもいい。むしろ、主観メインであることが重要だと思う。訪れる人は、評論を見たいのではなく、筆者の意見を聞きたいのだから。

訪れた側が、その人の背景だったり、訪れた人の背景だったりを踏まえて、各々勝手に理解する。妄想する。膨らます。だだくさでいい。それが適当。

レビューの項で書いた、映画の例文。あれは感想としては良いと思う。もしその筆者がそれまで紹介した作品から、自分と好みや着眼点が似ているという情報を得ているなら、例えばベスト10という筆者の主観は大きな参考情報になる。演出が派手という情報も、今まで筆者が記事にしていた感想の情報を得ているのであれば派手さの度合いなど、容易に想像がつく。その筆者の感想は、客観的な評価と比べて大きな価値を持つことになる。

なお、もうひとつ何かを紹介する上で情報を価値のあるものにする手段がある。「情報の整理」だ。これは事実をいかに見やすくするかが大事。それだけで価値になるものもある。この世の中わからんものだらけ。欲しい事実を教えてくれるだけで価値がある。何ちゃらまとめなんてまさにそれ。

思考の言語化

考えていることを文章や言葉に起こすことで、初めて本当の意味での理解ができる。と、この記事を書いてみて改めて実感した。

頭の中が整理される。ふわふわしたままでは文章に起こせない。言葉ひとつひとつに意味があり、それを理解して組み立てる。文章に起こしてみると普通のことやんと思うのだけれど、なんとなーくわかった気でいるだけ。

僕がブログに求めているものはまさにこれ。記事で何かを紹介する過程で、思考の言語化を行って頭の整理をしたい。整理することに慣れたい。そもそも、価値あるもの、理解できているか。「レビュー(評論)」や「感想」など適切な形で価値あるものを提供できているか。

 1:新しいものを生み出すことに慣れるため

 2:表現の仕方の奥深さに気づき、勉強したいと感じたため

 3:世の中に溢れているlogをもっと吟味するため

と、ブログを行う目的として3つあげていたけれど正確には以下の4つが正しいかな。

 1:考えを整理することに慣れたい

   書くこと自体がその手段

 2:自分にとっての価値を知りたい

 3:他人にとっての価値を知りたい

   記事のネタを探す、記事にすること(世の中に溢れているlogを、吟味する機会を
   作る)がその手段。記事になるかなーと感じたということは、自分にとってもし
   くは他人にとって何か価値があると感じたということ。それを記事にすることで
   整理して理解する。

 4:表現の仕方を学びたい(他人にとっての価値を、情報発信する上で最も効率的に、効果的に表現する方法を模索したい)

   記事の反応を確認、反省することがその手段。勉強、勉強、勉強。

 

しかし、本当に文章に起こすの苦手だ。疲れた。